聞けば、同世代のたくさんの男たちが、ひきこもって老親に養われ、80代の親が50代の子を世話する"8050"として社会問題化しているとのこと。女性の例もありますが、男性が圧倒的に多い。
どうして? そして、どうしたらいい?
家族支援者(=ファミリーライフエデュケーター)として、私も一所懸命考えました。
問題解決の糸口は、まず「知る」ことから。それがファミリーライフエデュケーションのやり方です。
……大きなボリュームで現象が起きているのだから、個々の問題というより、共通する社会的背景があるはず。そう考えて、同じ時代の空気を吸ってきた経験を武器に、8050問題世代の子育て時代(1970年代-1990年代)をひもといてみました。
最後には、この問題への新しいアプローチについても紹介します。
合っているとは限りませんので、その旨ご了承ください。
Contents
「親の面倒を見る。」「定職に就く。」「身を固める。」
そんな昭和の常識が崩れた
「親の面倒を見る。」が崩れた
一世代前には、「成人したら家督を継ぎ、役割を交代して親を経済的にも日常的にも面倒を見る。」というのは、日本人にとって当然の常識でした。
私が子どもの頃、そんな常識に抗うように、親がよくこう言っていました。
「年をとっても、子どもに迷惑はかけたくない」
何度もそう聞かされるので、子ども心に「そんなもんなのかな」と思ったことを憶えています。
8050問題世代は、多くの親が似たような発言をし、多くの子どもが私と同じように感じていたと思うのです。
長くなるので社会背景の分析は割愛しますが、とにかく、「成人したら家督を継ぎ、役割を交代して親を経済的にも日常的にも面倒を見る。」という義務感を強く持つ人は、ひとつ前の世代に比べると、私たちの世代にはぐんと少なくなっているように感じます。
「定職に就く。」が崩れた
私たちがちょうど20代の頃、フリーターという言葉が生まれました。
自分探し、モラトリアム、好きな仕事を追う、夢を諦めない、等いろいろな理由で、「一人前になったら一生食べていける仕事に就いて精進する。」という常識が崩れ、以前より定職に就かないことに対する風当たりが弱くなりました。
きっと80年代末~90年代初めのバブル経済の影響もあったのでしょう。20代という若さと、前項で述べた親の面倒を見るという責任感の薄れと相まって、この時期に定職に就くことを逃した方もおられるのではないでしょうか。
また、続く就職氷河期には、非正規雇用拡大を促す政策との相乗効果で、定職に就きたくても就けなかったという話も聞きます。
一昔前なら、知り合いの紹介などつてをたどって仕事を決めていたのが、IT時代の到来とともに、一律にエントリーシートを書き一斉に評価されるシステムとなり。
そこで何十件も門前払いされて、心が折れてしまったという方もいるとのこと。
私は決してネガティブなタイプではありませんが、それでも、何十件も断られたら、さすがに心が塞いで何もかも嫌になる心情には、強く共感できます。
そして、そのような就職活動を勝ち抜いて、やっと定職に就いても、今よりパワハラ、モラハラ、セクハラ等の概念が格段に薄かった時代ですから、厳しい労働環境に耐えきれずやめてしまったケースもあるとも聞いています。
「身を固める。」が崩れた
8050世代の子どもが30代の頃には、「 パラサイトシングル」(by山田昌弘)や「負け犬の遠吠え」(by酒井順子)という言葉が流行しました。
ここでいうパラサイトシングルとは、結婚せず親元で暮らし続ける成人のこと。生活費を親に依存すれば自由になるお金が増え、生活を楽しめるという発想です。
また、ここでいう負け犬とは、結婚せず仕事を続ける女性のこと。結婚しない女性が増えると、当然、結婚できない男性も増えます。「お見合い」というシステムも、この頃にどんどんすたれています。
こうして、「身を固める(=結婚する)」ことが社会人の条件という古い価値観が薄れ、親子がいつまでも同居するライフスタイルが生まれたのが、私たちの30代です。
ただ、私は、ここにはもうひとつ、親の子離れ問題が隠れているように感じています。親の、いつまでも子どもと離れたくないという潜在意識が、この状況を許してしまったのではないかと考えているのです(もちろん、すべてのケースに当てはまるとは限りません)。
男女雇用機会均等法が成立し
男という特権を奪われた
私は女性として、今までの人生で男女差別に悔しい思いをした記憶がありません。もちろん皆無であったわけではありませんが、1970年代のフェミニズム運動を経て、法律も整い、基本的には男女同権の時代が訪れたのが、私たちの世代です。
8050問題の当事者に圧倒的に男性が多いのは、これも関係しているのではないかと私は推測します。
女性には念願の男女同権ですが、それは同時に男性の特権を奪うことでもあります。
それまでの世代は「男である」ことだけでひとつ存在価値を確保していられました。
けれど、私たちの世代からは、男たちはそれを奪われてしまったのです。急に素手で戦うことになったことに、戸惑いもあったのではないでしょうか。
逆に、制度的には男女同権になっても、世の中に男らしさや強さを求める空気は残っており、その期待に応えられないことが彼らの社会参加を阻んでいるという考えもあります。
いじめ頻発・学校絶対・偏差値最強の中で
小中学生時代を送る
いじめ頻発・学校絶対
8050世代の子どもは、不登校がまだ登校拒否と呼ばれていた時代の小中学生です。学校に行かないことは罪悪で、学校に行かない子どもとその親に対する世間の風当たりも、今以上に強かったのを憶えています。
そして、おそらく、登校拒否のきっかけの多くがいじめです。私たち8050世代は、いじめが社会問題化する、まさにその渦中にいました。今の子どもたちの多くは、いじめは罪悪という確固たる認識を持っていると感じます。
けれどあの頃の子どもたちはまだ、いじめにたいしてそれほどの罪悪感は持てず、大人たちもいじめ対策を模索し始めたばかり。
だから,"いじめられる方も悪い"論なども存在していました。
どんな理由があるにせよ、いじめが将来に渡って大きな精神的傷跡を遺すことは間違いありません。
これによる引きこもりは、とても多いのではないでしょうか。
偏差値最強
また、あの頃は、偏差値が今よりもっと幅を利かせていた時代です。自分が偏差値のランク表のどこにいるのかが、そのまま自分の価値につながる、その感覚は、当時の中学生には強くありました。……そして親にも。
その結果、本人の向き不向きや、学習意欲の有無にかかわらず、学校のテストの点数を上げることが親子にとって大きな意味を持つようになり、今でいう教育虐待の温床になりました。
ただ、だからといって、教育虐待を親の罪とみなすのは、冷たい考えだと私は思います。いつの時代も、“世間"という、顔の見えない力に、親は翻弄されているのですから。
余談ですが、偏差値だって本来、悪しきものではないのです。偏差値は、受験校選びが適切に行われるよう、子どもたちのために編み出されたもの。それが、子どもの生きづらさに結び付いてしまうのは、皮肉なことです。
IT時代の到来
8050問題の、長期のひきこもり生活を可能にしているのは、コンピューターの存在ではないかと考えます。
人はコミュニティがなければ生きていけないイキモノと言われますが、現代では、外に出なくても、コンピューターとインターネット接続さえあれば、いろいろな情報に触れることが出来ます。いろいろな人とコミュニケーションをとることができます。ウエブ上のコミュニティの一員にもなれます。コンピューターがなくても、スマホさえあれば、同様の活動は可能です。
コンピューターは、コミュニケーションや情報収集だけでなく、ゲームや音楽、文章、絵画創作など、いろいろな機能を備えているので、有り余る時間を埋めて一日を過ごすこともでき、そうなると外に出る必然性はどんどん薄れていきます。
これまでは、私が同時代を生きて感じてきた空気感を手がかりに、時代背景についてふり返ってきました。
こうやって丁寧に見ていくと、これだけさまざまに、生きづらさを感じる背景があれば、しんどくなってしまうのも無理はないと感じます。
けれど、同じ時代に生きて、同じ男性で、同じようないじめに遭って、同じような偏差値ランクの成績で、同じように就職ダメージがあって、等々、なにもかも同じような"スペック"なのに、生き生きと社会参画して働いたり、あるいは家庭を持って暮らしているたりする人もいます。
今度は、どうして、その人たちは引きこもらなかったのか、という疑問に私なりに迫ってみます(繰り返しますが、これはあくまで私の考えであって、合っているかどうかはわかりません)。
同世代、同じ状況下で、そうならなかった人もいるのに、
彼らがそうなってしまったのはなぜか。
まず、大前提として、そうならなかった人とそうなってしまった人はグラデーションで繋がっていて、たまたま、そこに境界線があっただけということをイメージする必要があると思います。
その上で、その境界線の片側にあってもう片側にないものは、以下の三つ、と仮説を立てました。
「自分が生きていることそれ自体を喜ばれた経験」
なにができようができまいが、君がそこにいることそれ自体が喜びなのだよ、と自分以外の誰かに祝福された人は、きっと、どんな自分でも、社会に受け入れられると信じられるのではないかと思います。
一番身近な親がその役割を果たせればいいのですが、前述したように、親は世間に翻弄され、良い親でなければ、良い子を育てなければというプレッシャーの中で、それができずに、教育虐待的なものに陥っていたかもしれません。
生を祝福するのは、親でなくても、誰でもいいと思います。
誰に言われなくても、自分自身がそう感じることができれば最強ですが、強がりはだめです。
私は、やはり誰かの助けは必要なように思います。
ただし、ただそこにいることを祝福することと、今の状況を容認することとは、少しニュアンスが違いますので、誤解のないようにお願いします。
「生きがい(没頭するもの)」
趣味でも、スポーツでも、研究でも、何か没頭するものがあれば、人は、それを拠り所として、社会の中で生きていけるように感じます。
「~があるからやってこれた」というような発言は、この感覚を表しているのかもしれません。
そして、なかでも「だれかのために生きること」は、人間にとって根源的な喜びであり、最強の生きがいになりうると言われています。
ボランティア活動が実は自分の喜びになる、と人がよく言うのは、そういうことなのでしょう。
「良いコミュニティがあること」
職場でも趣味の場でも、ウエブ上もいいのですが、やはり実生活の中で、どこかで居心地のいいコミュニティに属すことができていたら、精神的な安定感はとても大きいと思います。
なかでも職場が、間違いを許容し、温かく見守ってくれる場であったら、ひきこもりに限らず、さまざまな問題は起きないかもしれません。なぜ、私達は、こんなに忙しく厳しく働く現状を維持しているのでしょうね……。
8050問題の当事者の方々は、日々、やるせないしんどさと向き合っておられるでしょうし、その支援をする方々も、生半可な気持ちではできないことに、長い間取り組んでいることに頭が下がります。
最後に、そういった皆さんへの敬意を込めて、私が見聞した、各地で行われている8050問題への新しいアプローチ例を紹介します。
実は「ひきこもり」という人はいない
支援はオーダーメード
アドボカシーとコミュニティの成長
アドボカシーとは福祉の言葉で、弱い立場にある人の生命や権利、利益を擁護して代弁することです。
8050問題の背景を探ったこの記事自体もささやかなアドボカシー。
そして、アドボカシーによって、コミュニティがその問題を受け止めると、コミュニティ自体が解決する力を持つようになります。
具体的には、たとえば、ひきこもりを理解したコミュニティの職場は、ひきこもり本人の就労にあたって、履歴書の空白を容認するようになったり、あるいは無理のない働き方を提案できたりするので、当事者が就職しやすくなり、その結果、そのコミュニティの8050問題が解決するというようなことです。
住んでいる町(コミュニティ)に、専門家による相談というよりも、もっと有形無形、専門家、素人、仕事、ボランティアといった枠に収まりきれない、本当の意味での支援、効果的な支援システムが存在しているかどうか、は大きいと思います。
全戸訪問
家族支援で言うところのアウトリーチです。
8050問題の名付け親でコミュニティソーシャルワーカーの第一人者である勝部麗子さんが所属する、豊中市社会福祉協議会の実践です。高齢者のいるご家庭を全戸訪問することで、この問題が浮かび上がり、勝部さんがこう名付けられたとのことです。ソーシャルワークはコミュニティに密着して地道に丁寧に関わってこそ、ということがよくわかります。
あいまいな機会の確保
同様に豊中市の実践ですが、他の自治体も取り組んでおられることと思います。
ひきこもりと就労の中間に位置するような居場所、ホップステップジャンプの、最初のホップにあたるような、いつ行ってもいい、休んでもいい、そんなハードルがほとんどない、けれど行ったらだれかと話せて、なにかができる、そんな場所を用意することで、最初の一歩を促す試みです。
ファミリーセラピー
家族支援には段階があり、私の専門のファミリーライフエデュケーションは、問題の起きていない段階の家庭に予防的にかかわります。
8050問題の場合は、すでに問題が起きている段階なので、ファミリーセラピーの対象になります。
8050問題では、親世代の考え方や親子の関係性が現状に影響している可能性が大きく、また、家族が問題解決のリソースともなり得るので、引きこもっている本人だけでなく、その家族全体への支援が必要です。
※「8050問題」が、本当に「問題」なのか?という議論もあるかもしれません。
親子がその状態に納得していて、なんの違和感も困り感もないとすれば、それは「問題」ではないかもしれません……。
ただ、困られている方にはたくさんお会いしますが、困られていない方にはお会いしたことはありません。
ストレングスベースドアプローチ
家族支援の基本的手法です。
ストレングスは、強みと訳します。つまり足りないところに注目せず、強みに注目していく方法です。
8050問題で言えば、過去のことは問わず、今その人、あるいは家族が持っているリソースに注目し、またはその人、家族が欠点と思い込んでいることを読み替えて、強みとして評価し、それを元にできることを探ります。
当事者による当事者研究
精神障害や発達障害の当事者によって行われている手法ですが、ひきこもり当事者にとっても有効なのではないかと考えます。
ひきこもり当事者や、過去当事者だった人による発言や自分語りには、インターネットサイトやこの問題を取り上げたイベント等で触れることができます。
それらは、やはり外野の理論より大きな力と感じます。
応援ミーティング
上記のすべてをミックスしたのが、この方法かもしれません。北海道浦河ひがし町診療所の実践ですが、海外にも同様のシステムはあるそうです。
当事者、医療者、支援者、コミュニティの人々が一堂に集まって、本人の状況を認知し、ストレングスベースドアプローチを基本に、どんな支援が必要かを話し合います。
まとめ
このほかにも、まだ報道されていない、話題になっていないだけで、各地に、ユニークな取り組みや支援がきっとあるでしょう。
これから、そのような取り組みが広く伝わり、この問題が好転していくことを期待します。
この問題が、とてもしんどい、難しい問題だということを痛感しています。
当事者とその家族の方は、言葉で言い表せない想いを抱えてらっしゃることと思います。
それでも、家族支援者は、レジリエンス(人間の回復力)を徹底的に信じます。
これまで、便宜的に引きこもり/8050問題として総論で語ってきましたが、実は、家族支援の基本はオーダーメード。
ひきこもりという名前の人はいないし、きっと、それぞれに違ったご事情があり、それぞれに必要な支援は違うのではないでしょうか。