家族支援のいろいろ

アドボカシー(家族の擁護と代弁)〜支援は家族に向かうだけじゃない〜

Advocacy

 
アドボカシーとは、福祉の言葉で弱い立場にある人の生命や権利、利益を擁護して代弁すること。

家族支援は、家族に向かうだけのものではありません。

現代家族の状況を、広く社会に知ってもらい、理解を促すのも、家族支援のだいじな仕事。

たとえば、
「子育ては母親の責任」という根強いイメージに対し、一昔前とは様変わりした親の現状を説明し、世の中の空気を変えるアクションとか、

ひとり親家庭や貧困家庭、ひきこもりの現状をレポートし、それらの人達の代弁をし、必要とする支援を提言する試みとか、

それから、
障害のある人や同性カップルなど、偏見や差別にさらされがちな人達の擁護活動も、アドボカシーといえますね…。

とにかく、

家族の側に立って、家族の代わりに、世の中にその現状や、それによって生まれる悩み、困難等を説明する。
そして、家族支援が必要なのだという社会的合意を得られるよう、働きかける。

それがアドボカシーです。

という書き方をするとでっかくなっちゃうけど、もっと身近な場所でも、アドボカシーは可能。
 
実は、普通に暮らしていても、家族に関する誤解や偏見って、意外とたくさん、目に、耳にしています。

そういうときに
「そういうこともないんだよ、だって、今ってさ…」
と現代家族の状況を伝えるささやかなおしゃべりをするだけでもアドボカシー

そのためには、まず、家族の現状と家族にまつわる問題について明るくなければなりませんね…。
そうでなければ、何が問題なのか、どう擁護するべきなのかがわからない。

たとえば、私が声を大にして言いたいのは「虐待通告」に関してのこと。

家族の、歴史や環境と影響し合う複雑な仕組みや、虐待に至る因子や心理的背景について詳しく知らない、ごく普通の人たちは必ず、
『児童虐待なんてとんでもない。そんなことをする親は許されない』
と素朴に言ってしまう。

そう思っているから、近所から怒号と子どもの泣き声が聞こえたとき、子ども家庭支援センターや児童相談所に「虐待通告」をすることは、まるで犯人を密告するようなイメージを帯びている。

そうじゃなくて。

本来は、虐待の疑いを知らせることは、親も子も救う手だてなのです。

だれも、虐待をしたいなんて思っている親はいない。
いろいろなことが絡み合って、はたから見たら、結果的にそうなってしまっている。

これは、その親だけを責めることで解決する問題ではなくて、
もしかしたら、
私達一人ひとりの中に内在する、「親が子どもを育てるのは当たり前」「親になったら我慢するのが当然」「子どもを立派に育てるのがいい親」とか、そういう当たり前と思われているいろいろな価値観が、束になって見えない圧力になって、追い込んだかもしれない。
それに耐えられる親もいれば耐えられない親もいる。
でも、耐えられないのは、いろんな要素でたまたまそうなっただけのことで、その人が悪いんじゃない。
だから、親だけで頑張らなくていい。

そういうふうに世間の感覚が変われば、同じ言葉も違うイメージを帯びてくる

児童虐待をする親は、鬼親ではなく、子育てに支援が必要な親になるし、通報は、その家族を支援しようという呼びかけになる。もちろん、通告する前にご近所で助け合えれば、そんな素敵なことはないけど、現代は、それも難しいかも…。

でも、みんながそう思っていたら、虐待しそうになった親は「助けて」と言いやすいし、近所の人による「虐待通報」は、白馬の騎士を連れてくる命綱になるかもしれない。

mami
mami
ただ、あまりにも家族支援リソース(資源)が少なすぎて、通告後に親子を充分に救うに至っていない現実はあるかもしれないけれど……。シンプルに、もっとこの分野で働く人が必要です。

 

professional
professional
「語る」人じゃなくて、ゲンバで誠意をもって「働く」人がね。
mami
mami
そうですね……。そして「働く」人も、日々その実力を磨いていかないと…。あーだから、「働く」人のためにこのサイトを役立ててもらおう、とがんばっているんだった……。

話がそれたから、言いたいことを再掲。
児童虐待に限らず、まだまだ、世間が持っている家族にまつわる漠然としたイメージには、真実と遠いものが多い。
だから、

現代家族の状況を、広く社会に知ってもらい、理解を促すのも、家族支援のだいじな仕事です。